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特集記事

生活に実習がある。と、総代さんは言った。


ここ一年半ほど、総代さんの寄合いがほとんど無い。世界中で流行っている疫病のせいだ。

神事や祈祷はいつも通り行われているが、祭りなのに総代さんの参列や直会(なおらい)がないと、直会担当の私としては張り合いがなく、心にぽっかり穴が開いている。

たった二年ほど前の、この直会の光景を、遠い昔の、失われた楽園のように感じるのは私だけだろうか。


だが、寂しいと思うのは、それまでが楽しかったからで、そもそも何の関わりもなければ、会えない、集えないという状態を寂しいと感じたりはしないはずだ。


他所から来た嫁である自分を歓待してくれ、冗談で笑わせたり、収穫物を差し入れしてくださったり、昔の牧野について教えてくれたり、喧嘩を仲裁してくれたり、多方面に渡って、いつも楽しみを与えてくれている総代さんに、まずは感謝せねばと思う。


というわけで今回は「総代さんとは何ぞや」、という話から始めたい。


神社における総代とは、読んで字のごとく、氏子(うじこ)の総代表、世話人のことである。氏子とは、その地域に住んでいる人のこと。お寺の総代と区別して、「宮総代(みやそうだい)」とか「氏子総代(うじこそうだい)」と呼ばれることもあるが、我々は親しみをこめて「総代さん」と呼んでいる。

片埜神社の場合、氏子区域の各地区から数名ずつ総代が出て、日常的にお宮の手伝いをしてくださっていて、現在総勢24名になる。


春と秋の例祭では、


「総代が、お祓いを受けると、氏子さん全員が祓われて清まる。」

「総代が、例祭に神饌をお供えして祈願をすれば、氏子さん全員がご加護を受ける。」


という構図が成り立っている。



そもそも氏神とは、その土地と自然現象・風土そのものとも言える。


どんな人でも土地とそこに現れる自然現象、たとえば天候や季節のうつろい、地震や雷、火事、雨風などから無縁でいることはできない。


その土地に住んでいるということは、氏神の恩恵、影響を受けて生きている、ということで、それは、神仏を信じる・信じないとは関係ない、当然の状態を指している。


たとえ旅人であっても、その日の一宿一飯は、その土地の氏神の恩恵を受けているのだから、昔の人は旅先でかならず土地の氏神さんにお参りをした。


毎朝太陽が昇り、雨が降ってお水が飲めて、作物が実って食べられる。ということを祝い、寿ぎ、永遠にくりかえすのが、祭祀である。


そして、祭祀の場所が神社であり、祭祀の継続を手伝うのが「総代」である。


‥‥というのが、私がお宮に嫁に来て教わった「総代さんとは何ぞや」なのだが、その役割や権限については神社規則で細かく定められている。


ここでちょっとだけ、考えてみてほしい。


教義を軸としてまとまっている宗教の信者とちがって、その地域に暮らしているという単純な事実だけが共通点の神社の氏子さんには、百人いれば百通りの考え方や生活の信条がある。


関西弁で言えば世の中には「いろんな人がおる」、この八文字につきる(自分もその一人)。だから、「いろんな人」代表の総代さんは、多種多様な人から慕われて、あんじょうできる人でないと務まらない。


樋口稔さんは、会社を定年退職した60歳から、88歳の現在に至るまで、片埜神社の総代である。途中三年だけ、お休みしたことがあるが、最も在任年数が長い総代のひとりだ。品とユーモアの絶妙なバランス感覚は、まさに「片埜の総代」のカラーを体現している。


老若男女どんな人をも和ませ、いつのまにか組織をいい塩梅にもっていく樋口さんの背中を見て、関東から来た私は、枚方での立ち回りを学んできた。


そんな樋口さんが総代を引退する意思を固められたと宮司に聞き、引きとめたい気持ち山々で、お話をうかがった。昔の氏地がどんなだったか、少年時代はどんな生活をしていたのか、総代とは何か。


このお話から、連綿とつなぐ祭祀の意味を感じていただければと思う。


樋口稔(ひぐち みのる)さん 写真左 (右は同じく総代の近藤武夫さん)


昭和8年10月12日、枚方市小倉(おぐら)の兼業農家の四男に生まれる。


室戸台風のときは一歳。倉の中でお母さんに抱っこされていたが、その時の記憶はもちろんない。


子どもの頃の記憶で印象に残っているのは、昭和14年3月1日午後2時45分、樋口さんが数え七つの時の、枚方市禁野(きんや)の砲弾火薬庫の爆発である。日本と中国の戦争が激しくなったこの頃、枚方市禁野には大規模な火薬庫があり、爆発での死傷者は700名にのぼった。牧野近辺の家々も、爆風でガラスが割れたり、家が壊れたりしたという。


「どーん、どーん、とおっきな音がして、工場やもん、次から次へと爆発するわけよ。父は勤めに出ていたから、母が一番下の子をおんぶして、兄と私は荷物を持って、もちろん車なんてないから、歩いて、小倉からこの牧野の道を通って、京都の八幡(やわた)まで避難しました。八幡の小学校の校庭には、避難している人がいっぱい。そこに、よる9時ごろやったかな、お弁当が配られた。おにぎり二つ。つけものふた切れ。はっきり覚えている。田舎の漬物あるやろ? こないおっきいの、それを切ってくれた。八幡の百姓の人が仕出ししてくれはったんよね。八幡もその頃は、店なんかないからね。農家しかないから。そのおにぎり食べて、八幡(はちまん)さんの山(石清水八幡宮のある男山)を見たら、山の上の空が真っ赤に染まっていた」


この爆発で殿山第一小学校が燃えてしまったため、数え八つで入学した小学校は、渚の村の中に作られた、トタン板の仮校舎だった。


「屋根も壁もトタンやから、雨が降ったら、バラバラバラバラ!!というものすごい音がして、先生の声が聞こえなくなって授業が中止になる。雨がやんだらまた授業をする。それはそれで、楽しかったけどねぇ。三年生になったらようやく新しい校舎が渚の丘の上にできて、自分の椅子を持って新しい校舎に登って行った。机は上級生が持って上がってくれた。うれしかったねぇ、新しい木の匂いがして」


だが、その三年生の時、お兄さんが戦争に出征することとなる。この時樋口さんは、生まれてはじめて写真撮影をした。お兄さんが形見として家族写真を戦場に持っていくためだ。

ボタンのついた詰襟を着て、ストロボにおどろいて目をまんまるくしているのが樋口さん。お隣が三つ下の弟さん。この写真を持って出征したお兄さんは戦死され、二番目のお兄さんも、戦争で亡くなっている。


「一番めと二番目の兄は戦死して、三番目の兄が小倉の家を継いだ兄、四番目がこの私、五番目は弟。ぜんぶ男。せやから炊事当番せなあかんわけ。父は勤め(京阪電車)に行っていて、母は田畑に出ている、だから私らが学校から帰ってから、両親が帰ってくるまでに風呂を沸かして、ごはん炊いて、おかずもこしらえて。おかずと言っても、菜っ葉を炊くぐらいやけども」

写真*前列の、上着を着ていないやんちゃな少年が樋口さん。


____小学生のときから家事全般、出来たんですね。


「そう。あと、鶏と牛の世話もね。農家は、農業用の牛を飼っているからね。当時、田んぼを耕すときも、苗を植えるときも、動力はぜんぶ牛や。トラクターなんて無い、村じゅう見ても、車に乗っている人なんていない、そんな時代。農家三軒で一頭の牛を飼っていて、餌当番が三日に一度、まわってくるわけ。牛の餌にするために、堤防に草刈りに行って、山盛りに草を刈ってきても、牛はぺろっと食べてしまう。だからひまなときは、牛のための草刈りに追われていたよね」

写真*小倉の生家。上)茅葺きの母屋。 下)瓦葺きの倉。


___小倉の生家はどんな感じだったのですか?


「家はかやぶき屋根で、お風呂は五右衛門風呂、ごはんはかまどで炊く。かやぶき屋根の、かまどの上は竹縄を三角に編んでそこから煙が抜けるようにしてある。煙突なんかにしたら煙突が熱くなってそこから屋根が燃えてしまうからね。かやぶき屋根の修理も、自分らでするわけ。お宮さんは宮大工さんが檜の皮と竹の釘で修理してはったけど、あれは上等、超一流や。百姓をしていると、麦わらや茅を刈ってきて二階に保存しておいて、屋根の修理になったらその麦わらや茅を出してきて葺きかえる。材料は自分の家で調達して、屋根屋さんの手伝いもする。上から葺いていって竹で締めていくというやつね。だから、大人になってから団体旅行に行って合掌造りの家を見ても、めずらしくもなんともない(笑) しくみがわかっているからね」


___なんでも自前。


「何にもないんやから。いまコマツの工場あるでしょ、あのあたりもすべて田んぼと畑。牧野だって、駅降りたら何にもない。招提までずっと田んぼと畑。とにかく田舎。靴だってないから、自分で履くわらじは、自分で編んだ。そのころから、片埜神社は一の宮だから、小さいころからずっとおまいりにきていました。だから生まれながらにずっと片埜神社。今の宮司の、おじいさんの代からね」

写真:中学生の頃(前列右)。


____お祭りの思い出はありますか?


「昔は小学校も中学校も村の氏神さんのお祭りの日は学校が休みになりました。

どこの学校も、みな休み。小倉は、私が子供の頃は氏神さんが一の宮(片埜神社)やから、との一行ってても、小倉の子だけ10月15日が休み。渚とか三栗は19日。磯島とか禁野は別の神社だけどお祭りは15日やった。片埜神社は、そのころは境内の真ん中に神楽殿があって、そこでお神楽したり演芸したりしていた。その横には土俵があって、秋祭りの宵宮には相撲大会もあったねぇ」

写真:秋祭りの相撲大会の写真。樋口さんはこの時はコーチ役(後列の真ん中)。

昭和26年、京阪電車に入社。駅員、車掌を経て運転士に。そして、助役、主席助役へとなられます。

勤めていた京阪電車は琵琶湖汽船も経営していたので、休日にはヨットを楽しんだり、会社の仲間と温泉に行ったり。時代は減圧式ブレーキの頃。運転技術の指導者としても活躍した樋口さん。

なかなかの男前で、茶道、華道のたしなみもあり、相当モテた気配がうかがえます。

やがて綺麗な奥様とご結婚され、三人の子宝にも恵まれます。


___総代になられたのはいつですか?


「平成5年の12月31日。京阪電車を60歳で定年してすぐ次の日の元旦からです。その頃はもう下島(しもじま)に家を建てていて、下島の総代に欠員があったから、私が定年になる頃に『樋口さんどうや、総代やらんか』というお声がかかった。『最初は言われた通りにやってたらええ、何にも知らんのやから。知ってるほうがこわいねんから』と言われて」


平成6年1月1日午前6時、歳旦祭が総代デビュー。以来30年近く「お宮さんの手伝い」に尽力してこられました。

牧野公園に「伝 阿弖流為・母禮の塚」の石碑が建った時。

総代旅行では必ずその土地の神社に正式参拝し、風土と文化を見物して懇親会。



プライベートでは、最愛の奥様と30か国を旅されました。


これは平成23年に本殿の大規模な修復(漆の塗り替え、桧皮葺き屋根の修復)が竣功した時の奉祝直会。

樋口さんは司会をされました。



さて、片埜神社では、拝殿や正門、東門という重要文化財にかける注連縄も、境内のあらゆる場所にかけられている細い注連縄講も、氏子農家の餅米の藁を使い、氏子の手で綯い、毎年掛け替えている。この注連縄作りの組織は注連縄講と呼ばれていて、講員の多くは総代を兼ねている。樋口さんもまた、総代になると同時に注連縄づくりに携わってきた。




「子供の時分は、田んぼの時に稲をかける竹竿をくくるのにも縄が要った時代。ひとたけ縄いうて、藁一本分の長さの縄ね。一町歩(3000坪)田んぼがあったら、その分、稲をかける竹竿も縄もたくさん必要。何百本も縄が要るから、手伝いで縄をつくっていた。雨が降って遊びにも行かれへん日なんかは、親の手伝いをして作って覚えたわけ」


___なるほど! 樋口さんは電車の運転士だったのに、どうしてあんなに注連縄綯いが上手いのだろうと思っていました。


「家が百姓をしていたら、みんなできるんちゃうかな。喜八ちゃん(総代の同期である竹嶋喜八さん)も上手やったよ。あの人も農家やからね。専業の大きい農家だと、縄ない機械というのがあって、どんどん藁をつないで長いのができるけど、うちみたいな兼業農家は縄ない機を持っていないから、お母さんを手伝って、みな手でするわけよ。友達呼んでね、納屋でおしゃべりしながら手でつくる。そのときに自然と覚えたんよね、細くならずに同じ太さでつないでいくやり方を。小学生のときから」


さらに、戦中、戦後にかけては供出(きょうしゅつ)制度があり、供出にも大量の縄が必要だったそうだ。

(※供出:農民から米、麦、雑穀、いも類の主要食糧の一定量を、政府が決めた価格で強制的に買い上げること)


「獲れた作物を供出するのに、今みたいに袋なんてないから、俵なわけ。俵ということは、その俵も編まなあかん。あれを編むのには、太縄、細縄がいる。縄ない機を持っている家でも、細い縄はできへんから、手でようけこしらえて、太い縄、細い縄を織物みたいに編んでいく。それをつないで、丸くして、蓋をする。供出は目方が決まっとるから、太い縄の本数も決まっている。それで俵は内側と外側と二枚重ねやから。とにかく、縄がようけ要る。供出は強制やからね。うちはしません、なんていうたら警察にひっぱられてしまう、とくに戦時中は」


___少年時代に体で覚えたことが、役に立っているわけですね。


「そうそう、私らはひもじいところから大きくなってるから、生活の中に実習があって、みな経験してる。注連縄なんか、作っているところを見てたら、あー、あんなんするのか、って簡単に思うやろうけど、いざ自分が藁を持ってやってみたら、できないからね。体験。ほとんどみな体験の結果やろな。あとは正念込めてやってるかどうか。ちゃらんぽらんでその場かぎりでは、でけへんわな」



___経験がない人はどうしたらいいのでしょう…。


「たしかに、経験してるか、してへんかによってだいぶ違う。だけど、経験してなかったら、今から経験したらええ。総代は、お手伝いしに寄せてもうてるわけやからね、ごみのひとつでも拾わしてもらう、石ひとつでも拾ってもとの位置に戻す、そういうのが総代やから。手を動かして、体を動かして、わからないことがあったら教えを乞う。できることからする。私らずっと家の手伝いでも会社の仕事でもそうしてきたからね。できなかったら、聞いて、教えてもらって、やればいい。繰り返していくうちに、経験になる。総代も経験。ただ祭りに参列して直会でお酒を飲めばいいというものではないと私は思っています」



樋口さんにとって、総代が神社を「手伝う」ということは、文字通り「手」で「伝える」ことで、それは、手を動かす、実際に動くことによって氏神さんの祭祀を存続させていくことに他ならないのだ。


今回、お話をうかがって分かったことがある。


総代さんと一緒にいて楽しいのは、彼らには圧倒的な体験があり、行動があり、そこから得た知織があるからで、何気ない冗談や受け答えの中に、ごく自然に知行合一が現れているからだ。


樋口さんは激動の世代を生きて来られた方だから、ここに書けない話もあり、それが一番面白かったりするのだが、お話を直接伺った私の特権として、ご容赦願いたい。


樋口さん、28年間、総代のおつとめ、ありがとうございました。今はお酒を一緒に呑むことができないので、かわりに漢詩の「勧酒」を、井伏鱒二訳で贈ります。世の中が元に戻ったら、また一献かたむけましょう。



勧酒 

于武陵 井伏鱒二訳


コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトヘモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ





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