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特集記事

鎌倉時代のんは、しゅっとしてはります。江戸期のもんとくらべてみよし。



外出自粛の日々、皆さま如何お過ごしでしょうか。


昨年の5月1日は、令和の初日でしたので、社務所の前にはご朱印の行列が出来、てんやわんやだったのを思い出します。あの賑わいからすると、今年の5月1日は、まるで別の星にいるかのように静かで、それもまた悪くない。


日頃から、ほとんど神社の氏子区域外には出ない私ですが、この春はとくべつ、神社の中にとどまっているため、社務所の開け放した窓からは、さやさやと木の葉の揺れる音、絵馬が風でかたかたと鳴る音、鳥たちのさえずり、啄木鳥が木を彫るリズミカルな音などが、くっきりと耳に届き、心身が研ぎ澄まされていくようです。


とはいえ、境内には、いつものおまいりの方々に加え、お散歩がてら、神様に手を合わせて行かれる方々の姿も見られます。

いつもと違うのは、参拝の人どうしが、おしゃべりしていないこと。

それどころか、人と人とが、だまって、距離を保っている…。(えらい!)

大阪の人たちが、こんなにおとなしく、静かに参拝し、内省的に自己を見つめているなんてことが、これまであっただろうか?(いや、ない)。

おそらく数か月の、儚いこの情景(であってほしいですが)を後世に伝えるべく、墨で社務日記に書き留めなくては。データは一瞬で消えるけれど墨は二百年たっても消えないのだから。


と思いつつ境内を掃き清めております。


さて今日も、在宅勤務が長期化し、体力免疫力維持のために近所を走ったり歩いたりするなどしている方々が。

普段は、通勤で牧野駅へ向かう途中に足早に通り過ぎるだけの片埜神社に、なんとなく、入ってみようかな? と、足を踏み入れ、


「こんな立派なオヤシロだったなんて、知らんかった」


と、感嘆したり、さらに説明板などを読むなどして、


「そうとう古いんやな、歴史があるんやなあ」


と、いうように、素直に感嘆しておられる姿を見受けます。この機会に、地元がどれだけスバラシイか発見し、そして、おおいに言祝(ことほ)いでいただきたいなぁと思います。ひとりごとでも、心の中でも。

さいわい、片埜神社には国指定・府指定の重要文化財や、風情のある土塀が残っていて、どれも、宝物殿にしまわれていないので、散歩のついでに自由に見ることができるんですよ。


なかでも、制作時代がいちばん古いのは、こちらの石灯篭、鎌倉時代のものになります。拝殿前の参道左手にございます。↓


私の身長が160センチですので、サイズ感、お分かりいただけますでしょうか。

古文書によると六尺六寸(198.98㎝)だそうです。

六尺六寸という高さ、「六」にこだわりあり、と思われますが、この燈籠、いくつかのパーツが六角形や六面でつくられています。


パーツの名前は以下のとおりです。(先々代の古建築ノートを模写)

下から見ていきましょう。基礎が正六角形。測ってみたら一辺が39センチ(約1尺3寸)でした。蓮の花弁が彫刻されています。



六角形の中台(ちゅうだい)の下側にも蓮弁(蓮の花びら)が彫刻されています。



中台の上部は三段に刻み出されています。その上に載っている火袋も六角形。四角い半紙の貼ってある部分は空洞になっていて、ここに蝋燭を入れて実際に使っています。半紙を通す明かりは風情がありますよ。



さて火袋の前と後ろは四角形に空洞になっていて半紙を貼るのですが、そのほかの四面には、種子(しゅじ=仏をあらわす梵字)が彫られています。



「アク」不空成就如来


「ウーン」阿閦如来

苔で見えにくいですが、「タラーク」宝生如来


「キリク」阿弥陀如来




笠には、立ち上がりがシュッとして、きりっと巻いた蕨手が。そして、宝珠が乗っています。


「蓮、宝珠、如来、梵字ときたら、これお寺のやつですよね?」


と思ったあなた、するどいですね。


そもそもこの灯籠は、宮寺のものと思われます。


「宮寺ってなんなのよ! お宮なのかお寺なのかはっきりしてよ!」


といった苦情が聞こえてきそうですが、


そうなんです。お宮のお寺が宮寺です。明治維新でお寺と神社ががっつり分離される前は、多くのお寺と神社は同じ敷地内にありました。平たく言えば神社が神様担当、お寺が人担当で、協力してこの世あの世をメンテナンスしていたのです。片埜神社にも、宮寺があったことが、江戸時代に出版された河内国のガイドブック、「河内名所図会」にも記されています。

※神社所蔵の「河内名所図会」を開いて写真に撮ったデータを、説明文とともにデザインしてパネルにしてくださったのは有限会社タイトルアートさんです。


そもそも灯籠とは、僧房の灯火具から仏前供養の具になったもので、その起源は古くインドにあると伝えられています。


インド…私の故郷(生まれただけですけど)、そこから中国を経由して日本に伝来した灯籠。日本でも当初は仏前供養の具として使われていたものが、神仏混交の風が起こってから神社にも献納されることになったのだそう。


日本人の「取り入れてちがう方向に発展させる」才能が発揮されたのですね。


この石灯籠に刻まれている梵字の向きは以下のようになっています。六角形で真南と真北は火口になるのでこのような配置になったのでしょう。真ん中の「バン」(大日如来)は書かれていなくてもあるものと見立てるのだそうです。




仏教では金剛界四仏は四つの方角にきっちりと配置されており、それぞれに意味があります。↓




仏教については、にわか勉強で語れませんが、片埜神社歴代宮司の記録によると、金剛界四仏が刻まれているということは、宮寺の本尊は「大日如来」であっただろうとのこと。

灯籠は古くは真ん中に一基配置されているのが一般的だったようです。(「法隆寺 灯籠」で画像検索してみてください。参道の真ん中に立つ灯籠が出てきます。)


それが後の時代になりますと灯籠も装飾の役割が強くなり参道の左右に配されることとなります。ちょうど狛犬さんの「あ」「うん」のように、二基で一対という形が好まれたのですね。




現在の片埜神社。拝殿向かって左は鎌倉時代の灯籠。向かって右にも、遠目には同じような灯籠が建っています。二基で一対ですね。けれども右の灯籠は江戸時代に左のものを真似て作られたものなんです。


さあ、こちらが江戸期の燈籠です。竿の部分に刻まれた文字を見てみますと、



「奉献 牛頭天王御●」と書いてありますね。

「牛頭天王」というのは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神で、「素戔嗚命(スサノオノミコト)」と習合した神仏習合神なのです。本地垂迹説、歴史でやったような気がする……という方は、ググってくださいませ。牛頭天王は、薬師如来の垂迹で、スサノオの本地だとされていました。よって、この燈籠は、素戔嗚尊(=牛頭天王)への献納だということになります。



中台は六角形ですが三段には刻まれていません。


火袋も六角形でサイズは左の灯籠と一緒ですが、種子が彫られていません。


蕨手は、まるっとしています。

左の灯籠のは、しゅっとしていましたよね?


左の鎌倉時代の灯籠と、サイズやデザインは真似ているものの、やや抜け感がある、リラックスした感じがするのが右の灯籠です。平たく言うと、若干、簡素。もしかしたら、神社に置かれることを前提としての簡素化かもしれません。


右を鑑賞してから左を鑑賞すると、

「むむ、やはり左のほうが、灯籠っぷりが見事」

と感嘆せざるを得ません。きりっと引き締まった緊張感が漂っている。


時を戻そう。


さきほど、拝殿向かって左、鎌倉時代の灯籠のほうは、金剛界四仏が彫られていた、ということは真ん中の「大日如来」がかつての宮寺の本尊だったと思われる、ということを書きました。


「大日如来」は神仏習合の際、「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」と習合しているんです。


つまり、今現在の位置関係は、拝殿に向かって左にアマテラスさんへの献灯、向かって右にスサノオさんへの献灯があるということになります。神道では、通常、左(向かって右)が上位とされていますので、この場合、スサノオさんが上位の関係で建っています。


「え。アマテラスさんのほうがお姉さんなんやし、伊勢神宮の神さんなんやから、アマテラスさんが上位やろ」


という考えもあるかもしれません。私もチラっと思いましたので、その質問を宮司にぶつけてみました。


すると、片埜神社の主祭神はスサノオさんであるから、スサノオさんが上位になっていることはなんら不思議ではない。との答えでした。なるほど。


いかがですか?灯籠一基でも、興味を持って見ると、いろんなことが芋づる式に分かってきて楽しいですよ。また、灯籠は、時代によって流行った形があり、氏子さんからの奉納が多いので、時代時代の特徴をみることができます。お散歩の折には、眺めてみてくださいね。














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