父の帰幽

地球上で、人は刻刻と亡くなり、刻刻と生まれている。

神道では、亡くなることを「帰幽(きゆう)」と呼ぶ。幽に帰ると表現する。

幽の状態って、どういうことだろう。



私の父は五年前の七月十四日に帰幽した。父は東京都台東区谷中の酒屋の四男(六人きょうだいの末っ子)に生まれ、商社に入り、インド、リビア、イランに駐在、最後は東京の自宅で、私を含む家族三人に囲まれて亡くなった。社内結婚した母との間に娘が二人。姉は東京で生まれ、私はインドで生まれた。

メキシコで乗った車が横転してあばら骨が折れていたり、リビアで爆撃に会って消息が不明になったり、いろんな危機一髪を生き延びてきた父も、胸腺というめずらしい臓器のがんには勝てなかった。ジャストミートする抗がん剤がなく、「肺がんの薬が効かなくなった時が寿命」と、がんの専門医に言われ、いよいよその薬が効かなくなった時、父は最後の日々を東京の自宅で、妻と二人で過ごすことを望んだ。


自宅近くに「在宅ホスピス緩和ケア」を専門とするクリニックがあり、そこから医師や看護師が定期的に来て看てくださることになった。とはいえ、基本的に在宅療養の場合は、痛み止めの座薬を入れてあげるのも、痰の吸引をしてあげるのも家族。看護師さんに教わって、母がしていた。近くに住んでいる姉も、遠くに住んでいる私も、がん患者の末期症状について調べたりして、その時に備えた。

六月に私が大阪から東京に帰った時、父は、ものを食べられなくなってからひと月たっていた。栄養や水分補給の点滴さえしないと決めて、その意思は固かったから、ときどき、果物の汁をすすったり、氷をなめたりして(水分をごくごく飲むことも、もはやできなかった)生きていた。


太めだった父がどんどん精悍な修行僧のような容貌になっていったが、ふつうに起き上がって、トイレにも自分で行き、子供の頃に後楽園球場で見た日米親善試合の話をしていた。ものを食べられない以外は、まったくふつうなのだった。人間は、一か月ものを食べなくても生きられるのだと、その時知った。


七月八日にもう一度帰省した時、父は起き上がって水を飲もうとしてむせて、「もう駄目だな。」と、サラっと言った。それでも、病院にいる病人よりはずっと健全な雰囲気だった。

その日、主治医の説明を受けた。実家のダイニングテーブルで、母、姉、私。主治医の先生も、白衣を着ておらず、ふつうのシャツだった。おやつの団欒のような雰囲気の中で、ここから先、父の体が、死に至るまでどういう経過をたどるのか、説明があった。

がんを患った人体が、どのように終わりに向かっていくのか、いつごろからどんな風に意識レベルが下がっていくのか、どのような状態で、お別れになるのか。

呼吸器などの機械を一切つけず、点滴もせず、痛みをやわらげる座薬のみで自然にまかせた場合、その経過はある程度、予測可能であり、ゆるやかで、急変なんてこともない。そして帰幽までは、一週間くらいだろうとのことだった。

長年、がん治療の最先端で働き、今は在宅ホスピスの先駆者である主治医の説明は、信頼できるものだった。とはいえ、一週間から十日後に亡くなることが前提の話についていくのは、なかなかきついものがあった。


「まだあんなに元気なのに、来週の今日にはおそらく死んでいる」ということを具体的に想像しようとすると、頭がおかしくなりそうだった。なにしろ父は、その時点では、起き上がることもできたし、排便も、自分でしていたのだ。食べることと飲むことは出来なかったが、母の作るかき氷を、ちょっとずつ舐めていた。そして、何ひとつ文句も、弱音も言わなかった。「すいかが食べたいなァ」というので、こまかく切ったすいかを渡したが、やっぱり固形物は飲み込めず、悲しい顔をしたときは切なかったが。


私は主治医に質問をした。

「子供たち(父にとっては孫たち)に会わせたほうがいいでしょうか」

今すぐ小学校を休ませてまで、子供らを大阪から東京に連れてきて会わせる状態なのか、知りたかった。そういう場合、「おじいちゃんが危篤なので」と言って休むものだが、今、父はどう見ても危篤ではない。

すると医師は言った。

「意識レベルはどんどん下がっていきます。早めに会わせてあげてください。明日でも、あさってでも早いほうがいいです」

この返答で、私は正気に返った。父の肉体はもう帰幽への準備を進めていて、それは不可逆なのだ。そして残される家族にとって、父が我々を認識してくれる「意識レベル」が保たれているかどうかは、生物としての生き死に以上に重要だ。

これから血圧は徐々に下がってゆく。それにつれて意識レベルもだんだん下がってゆく。血圧が50を切ったらお別れが近い。ただその時も聴覚と触覚は最後まで残っている。だから最後は、「さわって、話しかける」。

帰りの新幹線のぞみ号新大阪行きの中で、私はなぜか猛烈に気合いが入っていて、疲れているのに一睡もできなかった。おそらく、東京にいる母も姉も、そういう状態だったと思う。


翌日、私は小学校に欠席連絡をし、子供たちを東京の実家に連れて行った。娘は、おじいちゃんの手を握ったり、氷を運んだり、かいがいしくはたらいた。息子は、痩せたおじいちゃんがこわいのか、なかなか父と目を合わそうとしなかったが、シャイな息子がそばにいくと、父は息子の名前を何度も呼びながら、息子のお腹を、手の甲でぽん、ぽんして、「おじいちゃんは小さいころはジャイアンツの選手になりたかったんだ」、と話していた。

週末実家に二泊した子供たちを大阪に連れて帰るとき、父は、私と子供たちに

「ありがとう。元気でな」と言った。

これが、私が聞いた、父の最後の言葉だった。まるで寅さんだ。


翌、七月十三日。あとから考えると、これが帰幽の前日だった。子どもたちは夫と姑にまかせて、私は京都駅で水なすの漬物2つ、ゆば山椒、赤福12個入りを買って新幹線に乗り、東京の実家に向かった。


実家につくと、姉が鍋に見たことのない料理をつくっていた。姉は料理教室の先生をしている。薬膳も学んでいる。こういう時には看取りをする者が精をつけなければいけない、と、本格的なサムゲタンを仕込んでいたのだ。

母、姉、私の三人で赤福12個入りはぺろりと食べ、サムゲタンもわしわし食べた。

父は、うとうと寝ていて、あー、うー、と時々うなる。もう、センテンスはしゃべらない。ただ、聴覚と触覚は残っているといわれたので、私たちは父の手を握って、楽しかった思い出や、謝りたかったことなどを話した。父は少し目をあけて、あー、うー、と答えているようだった。

その日の晩は、姉と姪にアイメイクをしてあげた。なぜだかはわからないが、女の人が気合いを入れてがんばる時は、アイラインがかんじんなのだ。サムゲタンのお返しのような感じでもあった。


七月十四日。あとから考えると、帰幽の日の朝だ。

父は痰がひどくからみ、足をばたつかせた。がんばって吸引をするが、痰の粘度が高くてじょうずにいかない。看護師さんが9時半に来て、鼻から吸引してくれた。さすがプロだ。

医師の診察。血圧50。「きょうあす、お別れの時がちかづいています。耳は聞こえておられますから、たくさん話してください」と言って、医師と看護師は引き上げていった。

在宅ホスピスは、最期の時を、家族だけにしてくれる。そのために、医師や看護師が、長い時間をかけて、じっくりと、何度でも病気や体の説明をしてくれる。家族は、死に対する知識と勇気をこしらえて、その時を迎える。だから、あわてて救急車を呼んだりせずに、愛する人の死の瞬間を、家で、自分たちだけで、ともに過ごすことができる。

父の意識レベルが下がっているのがわかった。半目をあけているが、天井のほうをぼんやり見ていて、焦点があっていないようだ。私たちの話に対するリアクションも、なんだか、うすい。

父の意識が、だんだん輪郭を失って、周囲の環境と融合していくかのように見えた。

姉と私は、父のベッドの横にソファを運び、母に父と添い寝してもらうことにした。

父と手をつないで横になった母は、数か月ろくに熟睡していなかったので、すぐに眠ってしまった。

なんと平和なひとときなのだろう。大好きな母の横で、父の意識が、より大きく漠然とした存在にうつろいゆくようだった。

それは、静謐で、親密な時間だった。

今夜ぐらいなのかな、と思っていたが、夕方にさしかかると、父が顎を上下させて息をしはじめた。医師から聞いていた「いよいよお別れ」のサインだ。姉に相談し、眠っていた母を起こす。

母は、「こういう感じになったら早いって、先生は言っていたよね」と覚悟を決めたようだった。そして、父の耳元で、お別れの言葉を言った。

「50年間一緒にいられて、楽しかったよ。私のことは大丈夫。元気にやっていくから心配いらないよ。大好きだったお母さんに会えるね。しばらくの間、交代だね」

父は大学生の時に大好きなお母さんを亡くしていたから、会社で母と知り合ったときにはすでに父のお母さんはこの世にいなかった。ただ、父はよく「自分のお母さんは谷中小町と呼ばれるほどの美人だった」「自分は末っ子で、いちばんかわいがられていた」と話していたのだ。

母は、旅立つ父に、この世に残された自分のことは心配しないで、あの世でしばらくお母さんに甘えてね、というようなことを言ったのだった。

大好きなお母さんに甘えて育ち、大好きな妻に世話してもらって看取られて、またあの世で大好きなお母さんに甘えるなんて、父はどれだけ幸せ者なんだ。

姉と私も負けじと、「ありがとう」「だいすきだよ」「バイバイ」「ちゃんとやるからね」と父に言った。自宅だから、半泣きで大声出したって、いっこうにかまわないのだ。

顎を上下させて息をしていた父は、息をふーっと一息ついて、すこし間があいた。

そしてもう一度、もっと大きく息をすって、ふーっとゆっくりはいて、目をパチっと閉じた。

それから息をしなくなった。

父は心電図も、何の機械もつけていなかったが、私たち3人は「いま、父が逝った」と、確実に理解した。医師でも看護師でもないけれど、父の生命活動がいま、止まったことは、同じ生き物としてしっかり確認できた。

私たちは、茫然として、そのすばらしい瞬間を味わっていた。

なんてロマンチックな最期だろうか!

「すごい。本当にすごいよ」

三人とも、ただ、「すごい」しか言葉が出なかった。

父が現役のころは、ほとんど家にいなかったから、私には父と一緒に遊んだ記憶が無い。が、最期の最期に、父が手渡していったもの、母が父に向かって言った言葉が、私の中での大事な核となって、五年たった今もピカピカ光っている。

帰幽とは、祖先のもとに帰ることを言う。生き物は、祖先から発生して、また祖先に帰っていく。祖先というのは、たどればだいたいの人がつながっている。そのつながっている、ぼんやりしたカタマリが「幽」。みんなそこに帰っていくから、近いうちにまた会える。


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