鬼の角に紙泥棒


境内の掃除をしていると、鬼の両方の角に、鵯(ヒヨドリ)が一羽ずつ、とまっていた。視力の悪い私は、最初、鬼の角が伸びたのかと思った。

大阪城の鬼門除として豊臣秀吉公から指定を受けた片埜神社には、それに因んでいたるところに鬼面がある。桜の木の横にある赤い鬼面はひときわ大きく目立っており、我々はふつうに「鬼」と呼んでいる。

その鬼の両角に鵯がとまっていたのだ。



よくみると、向かって左の角(神道的に言うと下位)にとまっている鵯が、鬼の上にある注連縄の紙垂(しで)をくちばしで引っ張っていた。紙垂(しで)というのは、文字通り垂れた紙で、注連縄とともに結界を表す。

向かって右の角(神道的に言うと上位)にとまっている鵯は、せわしなく周囲を見渡しつつ、下位の鵯を応援、あるいは指示の様相。

先ほどから奮闘中の下位の鵯が、くちばしで5、6回、引っ張ると、ついに紙垂が抜けた。

片埜神社の注連縄は、地元農家の餅米の藁を、講の方々がきっちり綯ったものだ。そこに挟んだ紙垂を抜くには相当な力が必要だったはず。下位の鵯は「抜けたよ!」という達成感の瞳で上位の鵯を見た。上位の鵯は「よくやった」と言う様に、ひょ、ひょ、と鳴いている。

この者たちは、つがいだな。(下位がオスで、上位がメスだな。)と勝手に思いながら、私はポケットに手をつっこんでスマホを出そうとした。彼らを撮影するためだ。

すると上位の鵯が奇声を発し、急に飛び立った。

下位の鵯は飛び上がる途中で紙垂を落としてしまった。

二羽は、あわただしく近くの木の上へ待避。「やばいよやばいよ」とというように互いに鳴きながら、枝から枝へとせわしなく移っていたが、一分もたたぬうちに紙垂をあきらめて飛び去った。

野鳥は警戒心が強い。竹ぼうきと箕を持っている菅笠姿のあやしい者には、もう近づいてこない。

たいがいの鳥は、獲物や巣の材料を咥えて飛ぶとき、一旦、物を地面に置いて、飛ぶのに良いバランスで咥え直してから飛び立つ。

だが今回は、私が銃でも取り出すかの如く、素早くポケットに手を突っ込んだものだから、上位の鵯が殺気を感じたのか、ジョン・ウーの映画に出てくる鳩のように急に飛び立ってしまった。あわてて飛び立った下位の鵯は、紙垂を一旦置いてバランスを確保する隙がなかったのであろう。

悪いことをした。

だが、一旦置くひまがあったとしても、あの大きさの紙垂を咥えて飛ぶのは、よほどのニンジャ・スキルがないと無理だろうと思う。

そもそも、紙垂なんか取ってどうするのだ、という素朴な疑問がわく。

実は、この5月から、結ばれたおみくじをくちばしでじょうずにほどいて持ち去る鵯、灯籠にぴっちり張った半紙をくちばしで突いて破り、びりびりと裂いて持ち去る雀やシジュウカラなどが、連続して目撃されてきた。

神社の紙泥棒である。

調べてみると、鵯(ヒヨドリ)の巣作りは5月から9月で、ほんとうは渡り鳥(渡るのは日本列島内)なのだが、渡らずにずっと同じ地域に住む者も増えているらしい。ということは、ちぎって持っていくおみくじや半紙は、巣作りに活用していると思われる。




灯籠の、宝珠のあたりを見て欲しい。八月六日、ついに、半紙をくわえてカッコよく飛ぶヒヨドリが撮れた。


さて、下は昨年の台風で落ちてきた野鳥の巣の写真である。

昨年までは、小枝や葉の他、針金製の衣文掛けや、ネットが組み合わせてあったが、紙は使われていなかった。


半紙の持ち去りもなかった。

というわけで私は以下のようなことを推定する。

今年の春、最初に紙泥棒として目撃されたのは鵯である。したがって、まず一組の鵯が、この春にたまたま「神社の紙を使って巣を作ってみた」、そして、ほかの野鳥も「いいね!」と真似をして、紙を使ったエコな巣作りがたちまち野鳥たちの間で流行していった。

巣の全体に、断熱材のようにまぜこんでいるのかもしれないし、あるいは巣の中で、布団や、座布団のように使用しているのかもしれない。

こちらとしては半紙や紙垂を持っていかれると、また貼り直し作り直ししなければならないので、「仕事増やすな」と思う反面、ルパンを追いかける銭形のように、ちょっぴりうれしい気持ちもある。同じ紙でも、近所のポスターなどがやられていないのを見ると、「やはり和紙が良いのだな」と自慢に思ったりする。


きちんと撮られた鵯(ヒヨドリ)のフリー画像があったので参考までに貼っておく。

寝起きの若者のようなボサボサ頭が可愛い。


だが、私が撮影できるのは、たいがい、彼らが立ち去った後の現場写真だ。

そして、現場に残されたいくつもの紙片を見て、疑問がわく。鳥が運搬途中に紙をポロポロ落としていくからである。

なぜ鳥は、紙を運ぶのが下手なのだろう?

そして思う。「歯が無いからだろうな」と。

すると、また次の疑問がわく。

そもそも、なぜ鳥には歯がないのだろう? 

巣づくりなど、口だけでやるのだから、歯があったほうが、材料をかみ切ったり、ひっぱったりするのに便利なはずだ。

鳥の祖先である恐竜には歯があった。恐竜から鳥になる過渡期には、歯のある種類と、無い種類が同時に存在していたと、化石で分かっている。


ということは、鳥は、祖先が持っていた歯を、あえて失った、ということになる。

食べものを丸のみする鳥類は、砂嚢(さのう)という器官で、食べたものをすりつぶす。この器官では、いっしょに呑みこんだ砂や石を利用してすりつぶしたりもするので、スナギモとも呼ばれる。

たしかに、神前に供えた米をついばんでゆく雀を見て、「こんな固い生の米を丸のみするなんて、鳥の消化力は神やな」と思う。

が、だからといって、「鳥には、砂嚢という最強の消化器官があるから歯はいらんのだ」、とする説は、卵が先かニワトリが先かという議論と同じになってしまう。

ちなみに恐竜にも多くの種で砂嚢があったと考えられている(化石から胃石が見つかっているため)。それでも歯を持っていたのは、獲物を仕留めるためだろうか。

では、現在の鳥類が、歯を手離した理由は、なんなのだろうか。

「飛行のため、体の軽量化を図って歯を失った」とする説や、「鳥類の餌である虫類や実のような小さなものを食べるのにくちばしのほうが好都合だから」、とする説が、長いあいだ、有力だったそうである。

さもありなん、とは思うが、どう見ても重そうな、大きくガッチリした武器みたいなくちばしを持った奴らも、悠々と空を飛んでいるし、雀は、お供えの米をついばむ時、ボロボロこぼしまくっている。こまかいものをつまむのに、くちばしが最適のフォルムであるなら、こんなに米をこぼすだろうか。


ただし、お供えの夏みかんは、見事に、中身だけをくり抜いて食べている。(表側からは無事に見える)。お供えの夏みかんをバレずに食べきる用には、くちばしは最適のフォルムだと言える。

検索してみると、鳥に歯がない理由について、2018年に新説が発表されていた。


https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rsbl.2018.0090

英国王室協会(Royal Sosiety)の専門誌バイオロジー・レターズ(Biology Letters)に、ドイツのボン大学のツールエイ・ヤン氏とマルティン・サンダー氏が、鳥が歯を失った理由について、「ふ化までの期間を短縮するため」と書いていた。

たしかに、ヒトの歯も1歳近辺まで生えてこないし、生え変わるのも人生でたった一度である。それほど、歯というのは、作るのに大量の素材と時間、エネルギーを要する器官なのだろう。

卵の中にいる時に、歯をつくろうと思うと、計算上、ふ化までに1.6倍の時間がかかるという。その間に、嵐で卵が落ちたり、天敵に持ち去られるリスクが高まる。


山中での地鎮祭で、お供えの卵がヘビに丸のみされてしまったのを見たことがある。卵が敵に対して脆弱であるのは理解できる。

歯をつくるのをやめて、ふ化までの期間を短くしたほうが、胚の生存率が上がる、という理屈は納得できる。


だが、「それならヒトみたいに歯無しで生まれてから、しばらくして歯を生やせばいいではないか」とも思う。ヒナのうちは、親がもってきてくれる餌を、口をあけて待っているだけなのだから。

いずれにせよ、自然界の現象についての「なぜ」にたいする答えは、永遠に、「説」でしかない。その時代、時代の、人間の論理的思考で納得できるストーリーが採用され、私たちはあたかもそれを真実かのように受け取ってしまうが、それも「今の時代の考え方にふさわしい物語」に過ぎない。時代が進めば、また新説が発表され、今の「真実」は古くなる。


もしかして、鳥に歯がない理由なんて、「特にない」のかもしれない。

歯は無いから、無いんだ。というのが、真理なのかもしれない。

それでも、「なぜ」と考える。


なぜヒトの手は二本なのか。

なぜ阿修羅のように六本ではないのか。


六本あれば、料理三品同時に仕上げることもできるし、動画の編集もあっという間にできる。双子や三つ子を同時に抱っこしてあやすことができる。

それじゃあ脳のほうが忙しくてついていけないから、だから二本なのだろうか。

社務所に出没するムカデやヤスデをつかまえようとすると、めちゃくちゃたくさんある足を実に器用に美しく動かして逃げる。彼ら節足動物は、頭ではなく足で考えているという。

生き物全体まで範囲を広げれば、考えることができるのは脳だけではない。それに人間の脳だって、多くの部分が使われていないと言うではないか。

そうなってくると、私には、ヒトの手が二本である理由が全く分からない。指が五本の理由も、おっぱいが二つである理由も分からない。ウイルスが、自分も死ぬのに宿主を死に至らしめる理由も分からないし、パンダがなぜあんな可愛いデザインなのかも分からない。

分からないのだが、毎日、さまざまな事に「なぜ?」と思い、考える。最近は、「意味はない」に行きつくことも多い。それでも考えてしまう。「なぜ」の答えを。バカなのかもしれない。趣味なのかもしれない。あ、そうだ、趣味なんだ。趣味だから、やめられないんだ。


論理的脳が満足する物語を、人は科学的根拠と言うのだろう。


非論理的脳が満足する物語を、人は神話と言うのだろう。


私はどちらもほしい。上等なやつを。ひょっとしたらものすごく欲深いのかもしれない。


山中に庵を結んで、庭にくる鳥を眺めながら、時々たずねてくる友人と酒を酌み交わし、こういう欲深い話をするのが、私の夢です。

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