美智子さまの御歌
令和三年一月一日、午前六時。歳旦祭。
久方ぶりに勢ぞろいした二十四名の総代さんに会えた。私はうれしくて柴犬のようにはしゃいでしまい、そのせいで裃(かみしも)を出すのを忘れてしまった。

裃というのは総代さんがスーツの上に羽織る祭り用の装束。(写真は令和元年のときのもの)
ふりかえれば、令和二年はコロナ禍で、春も秋も、例祭は神職による神事のみとなり、各地域の氏子代表である総代さんたちの参列が叶わなかった。
例祭は、春は田植え、秋は収穫という、土地の実りを氏神さまに祈願、感謝する祭りだから、総代がお供えものを下げて、皆でいただく「直会(なおらい)」と切り離すことはできない。
しかし、皆でご神酒を頂き、氏神と先祖に感謝して土地のものを飲食し神々と人々が親睦を深めるという、宴会の性質を持った「直会」は、中止せざるを得なかった。したがって、総代の例祭への参列も、責任役員一名のみとなったのである。

が、そんな日々が一年も続き、個別にお参りに来てくださる総代さんからも、
「歳旦祭は参列してもええんちゃうかな…」
「直会なしでもええから神事には出たい」
というお話が出ていた。
そもそも、歳旦祭って何?という方に説明しよう。
1月1日の早朝に行われる歳旦祭は、例祭とは違った性質と形式を持つ祭りである。
元来、日本には1月1日に年神様がやってきて皆に一つずつ歳をくださることになっている。元日に皆が揃って一つ歳をいただく(これが数え歳である)。歳はとるものではなくて、神様からいただくありがたいものなのだ。
その元日の早朝に、宮総代が集まり、この地に年神様をお迎えするのが歳旦祭。例祭が「大祭」という形式で行われるのに対し、歳旦祭は「中祭」形式である。

宮司と熟考の末、令和2年の師走、総代さん方には歳旦祭参列の案内をお出しすることにした。しかし、不死身に見える総代さんたちも、年長者の集まりだ。コロナの状況も日々かわっていく。そこで、「神事参列については自由参加、直会はなし」というご案内をお手紙で出した。出欠はあえて取らなかったので、当日の朝まで、ご参列があるかどうかは、わからなかった。
「どうかな、今年は少ないんちゃうかな」
と、宮司もつぶやいていたが……。
令和三年元日の朝5時半ごろ、まだ暗く寒く、月の出ている境内に、背広姿でビシッと決めた総代さんたちの姿があった。
私は、「総代さん万歳!ばんざーい!」と思った。

と同時に、ふと、祭旦祭に集まった総代さん24名のお歳を足してみた。といっても、おひとりずつのくわしい年齢は存知あげないのでざっくり平均年齢78歳×24名で計算すると、1872だった。
つまり今ここに参列しておられる総代さんの年齢を縦につないでさかのぼると今からおよそ1870年前になる。それは弥生時代なのだ。
いま、この拝殿に、弥生時代から今に至るまでの歳数が集まり、年神様をお迎えしている。
1870年分の知恵と経験が、氏神様の前に集結し、あたらしい歳を村全体にいただくその瞬間なのだ。これこそが歳旦祭に総代が集結する意味なのではないか。私は雷に打たれたように感動して、そして裃(かみしも)を出すのを忘れた。

(写真は令和元年のものです)。
さて、歳旦祭は宮中でも行われている。
上皇后美智子さまが、皇后さまだった平成19年の歌会始(お題は「月」)で詠まれた御歌には、歳旦祭が出てくる。
年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて
君、というのは、当時の天皇陛下のことである。陛下は元日の朝五時半に四方拝をなされてから歳旦祭に向かわれる、そのお姿を美智子さまがお庭に出られて見送られる。そのときに月のあり処をたしかめるという内容の御歌であろうと思われる。
元日の朝の五時半といえば、大阪より半時間ほど日の出が早い東京でも、まだ日の出前で、景色は夜。空気は凍るようにつめたく、澄んでいる。毎年、同じ日の同じ時刻に、同じ装束、同じ作法で行われるのが祭祀なのだが、宮中祭祀はとくにそれが厳密に守られているであろうから、美智子さまが歳旦祭に向かわれる陛下を見送られているそのとき、美智子さまの瞳に写る風景は、毎年、まったく同じなのだ。ただひとつ、月の位置をのぞいては。
現実においては天皇陛下もお歳を召されるのだから、少しずつそのお姿が変化してゆかれているはずだが、美智子様はそのことには触れずに月の変化にのみ注目されている。そこに私は美智子さまの「君」に対する愛を感じる。

さて、一月一日の朝六時ごろ、つまり歳旦祭が行われる時間帯の月の在り処を、国立天文台暦計算室の「こよみの計算データベース」で調べてみた。
令和3年1月1日午前6時の東京の月
高度27.2 方位279・8 月齢17.2
令和2年1月1日午前6時の東京の月
高度-55.4 方位50.9 月齢5.7
令和元年(平成31年)1月1日午前6時の東京の月
高度37.7 方位148.0 月齢24.6
月齢は、新月(太陽と月が同じ方向になった瞬間)を0として、新月から何日経過したかを表す数字。0が新月、7前後が上弦、15前後が満月、22前後が下弦、30に近い数字だと次の新月に近いことになる。
方位は、真北を0°として東回りに測った角度。
元日の朝には毎年まったく違う方向にまったく違う形の月があるのだ。

では、月の満ち欠けを基準としている旧暦ではどうなるか。
令和3年 旧暦1月1日(新暦2月12日)
高度-12.2 方位103.9 月齢0.1(新月)
令和2年 旧暦1月1日(新暦1月25日)
高度-12.1 方位108.5 月齢29.7(新月)
令和元年 旧暦1月1日(新暦2月5日)
高度-10.5 方位105.0 月齢29.8(新月)
旧暦は月の満ち欠けを基準にしており、新月を1日としているのだから、当然ながら1月1日の月齢は0か30に近いわけで、月の方位や高度もほとんどかわらない。
つまり、旧暦で祭りをしていた頃、祭礼日の月の形と方位、高度は決まっていて、それは当たり前のことだった。
同じ日付には、いつも同じ場所に同じ形の月があったのだ。
旧暦一月一日はつねに新月だ。いいかえると月は出ていない。改暦以前、月あかりもなくほとんど真っ暗な中で天皇は天地四方の神祇を拝し、国家安寧と五穀豊穣を祈願されてきたのだ(見たわけじゃないのであくまでも想像)。
「水無月と静かの海」でも書いたように、私たちは明治に旧暦という暦を手放し、ほとんどの祭礼を新暦でおこなうようになったが、祭礼を消滅させることはしなかった。祭礼にまつわる文化もつないできた。むしろ古い文化を新暦と丁寧に縫い合わせるようにして残してきたように思う。美智子さまは和歌という文化をつなぎ、旧暦では歳旦祭には存在しなかった「月」をお詠みになられた。
古いものを出してきて磨き上げ、「ほら、すてきでしょう!」と見せる人。そんな人に、私もなりたい。