毒を食らわば皿までも





毎年、稲荷社の奥で、椿の大木が花を咲かせる。

大木すぎて、上を見上げねば花に気づかず、散り始めて地面に落ちたピンク色を見ては、あ、椿。と思う。


にわかにカメラを持ち出して、黒澤明の映画「椿三十郎」の椿屋敷を連想しながら、椿と土塀のツーショットを写真に収めることに夢中になる。


「椿三十郎」は「用心棒」の続編で、浪人の三十郎(三船敏郎)が、あるお屋敷に身を潜めているときに名を尋ねられ、屋敷の見事な椿を見て「椿三十郎」と名乗る。梅でも桃でも桜でもなく、椿というところがいい。


それにしても、近頃、土塀の傷みが激しいので、いつまでこのような寂びた風景が撮れるのか分からない。私らの代でこの土塀も再建せねばならないだろう。


そんなわけでこの季節は椿に執心していて、他の花にはまったく目がいかなかったのだが、実は赤門を入ってすぐの目立つ位置に、可憐な花を咲かせている植物があった。





社務所の玄関にも近いのに、興味がなかったために無視し続けてきたが、寄ってみると鈴蘭のようなこまかい花が連なっており、洋風に見える。


ちょっぴり南国テイストも、無きにしもあらず。


稲荷社の奥で秘密裏に花を咲かせる肉感的な椿に比べると、あっけらかんとした明るさで、

つつじの植え込みの中で、いつのまにか、たいそう栄えているのである。

外来種なのだろうか。




先日スマートフォンに入れた、植物判定アプリに判定させることにした。


もともと、梅の品種を調べようと思って入れたのだが、「梅(ウメ)」としか出ず、使えない奴、と放っておいたのだが、こういうA.I.にはたくさんのデータを投入して学習させないといけない。


早速判定。すると、「馬酔木(あせび)」と出た。


さらに「馬酔木(あせび)」について検索してみると、実はこの国に古くから存在する日本固有種で、万葉集にも詠まれている植物なのだった。


「万葉集にも」!


ということは、「大昔から貴い」と同義である。

外来種かもしれぬと思っていた私にとっても、にわかに馬酔木(あせび)が尊い存在になった。


実際に、万葉集において、馬酔木(あせび)はどう詠まれているのだろうか。


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど

見すべき君が在りと言はなくに

大伯皇女(おおくのひめみこ)


が、真っ先に出てきた。


ああ、そうだったか!


知っている和歌など指十本にも満たなかった私が、ずいぶん前から知っている歌だった。


一見、恋の歌のようであるが、ちがう。

見すべき君、は、もう死んでいるのである。


謀反の罪で処刑された弟の大津皇子(おおつのみこ)が二上山に葬られた時、お姉さんの大伯皇女が詠んだ歌。すなわち、姉が弟にささげた鎮魂歌である。


岸辺に咲く馬酔木の花を手折ってはみたけれど、見せてあげる君には誰も会ったと言ってくれない。(弟はもうこの世にいない。その魂に会ったよ、と慰めてくれる人もいない。)


大伯皇女は14歳から26歳まで伊勢の天照大御神に奉仕する斎宮(さいぐう)の任についていた。任解けて飛鳥へ帰ったのが686年11月16日。そのとき既に弟の大津皇子は、の妹持統天皇によって、ひと月半前の10月3日に処刑されていた。その遺骸を二上山に移し葬る時に詠んだとされるのが、


うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟世と我が見む


と、上の馬酔木が出てくる歌の二首であり、連続して万葉集二巻に収められている。


弟は草壁皇子に対する謀反の罪で処刑されたため、ふつうの人のように、「故人が夢に出てきたよ」「故人の魂に会ったよ」と言って大白皇女をなぐさめてくれる人もいなかった。馬酔木の花の華やかさが一層、作者の孤独感を増す歌である。


大津皇子(処刑された当時24歳)については折口信夫が「死者の書」という、ぶっとんだ傑作文学を残している。





「死者の書」は、ちょっと変わったお話だが、タイミングよく読み手がその波動に乗って、100%コミットできた場合、文学で感じたことのない魂のふるえを味わうことのできる作品である。この文庫本の表紙は大津皇子が鎮まる二上山の写真。


私はこの話を読んで以来、あの世の人間とこの世の人間が通じ合うことが自然に思えるようになったし、「鎮魂」という人生のテーマもこの物語から与えられたと思っている。


2005年には、川本喜八郎の人形アニメーションによって映画化もされている。まさに、人形でしか表現できない世界観で、これもまた、傑作である。(私は京都みなみ会館に二度足を運んでその世界に浸った。)




大津皇子の墓は、奈良県と大阪府にまたがる二上山の雄岳の頂上に、今もひっそりとある。昨年、二上山に登り、その墓におまいりした。嵐のあとだというのに、きれいに整えられており、その前に立つだけで、心が澄んでいった。






そこまでしていたというのに、馬酔木という植物については、二十年も無視してきた。どんな植物なのか、一度も検索さえしなかったのが不思議。


だが、このタイミングで知ることが出来たのも、ひょっとしたら神の采配かも知れないので、さらに、万葉集に詠まれている馬酔木を列挙してみる。


馬酔木なす栄えし君が掘りし井の

石井の水は飲めど飽かぬも(作者不明)


かはづ鳴く吉野の川の滝の上の

馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ(作者不明)


我が背子に我が恋ふらくは奥山の

馬酔木の花の今盛りなり (作者不明)


春山の馬酔木の花の悪しからぬ

君にはしゑや寄そるともよし(作者不明)


をしの住む君がこの山斎今日見れば

馬酔木の花も咲きにけるかも(三形大 みかたのおおきみ)


池水に影さへ見えて咲きにほふ

馬酔木の花を袖に扱入れな(大伴家持 おおとものやかもち)


礒影の見ゆる池水照るまでに

咲ける馬酔木の散らまく惜しも(甘南備伊香真人 かんなびのいかごのまひと)



おそらく、水辺にもよく生えていたのだろう。

そして「馬酔木」は「栄える」を導く枕詞なのである。


馬酔木と書く由来はこの植物に毒性があり、馬のような大きな動物でさえも、これを食したらしびれてフラフラになってしまうことからきていると言う。アセビという発音も「足しびれ」からきているという説がある。実際に食べてフラフラしている馬は見たことがないが、馬や鹿、そして昆虫までもが、この植物には毒があるので食べない、というのは事実らしい。


この花を馬酔木と知ってから、万葉集のふるさとである奈良に出かけたら、あちこちで馬酔木が栄えているのが目に入った。あれも馬酔木、これも馬酔木、あっちも、こっちも! 今まで無視してきたぶん、この世には馬酔木しかないのではないか、と思うほど目に飛び込んでくる。


鹿せんべい以外にも、何でもぱくぱく食べる若草山の鹿でも、馬酔木だけは避けるので、結果として鹿の多い春の野山では馬酔木ばかりが目立つことになる。馬酔木が、その可愛らしい見た目とはうらはらに、実は馬をもしびれさす毒を持っており、その毒で身を護ることによって着々と栄えているさまを見るのは痛快である。


だが、そんな馬酔木の葉を好んで食べ、その毒を体に貯めることによって鳥の捕食から身を護る昆虫が、一種類だけいるという。

ヒョウモンエダシャクという蛾だそうである。


上等だ。毒を食らわば皿までも。と、言いたいところだが、それは悪事をはたらいた者がさらに悪事を重ねる場合に言うことらしいので、


あらため、


毒を以って毒を制す。


この者こそが、「鬼を以て鬼を制す」鬼門除の片埜神社にふさわしい生き物ではないか?


今まで、何の興味もなかった植物の葉につく虫が、そのような生き物だったとは。不思議だが、これも何かの縁だ、幼虫が葉っぱを食べる時期になったら、また馬酔木の葉を観察しよう。

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