時をかけるご朱印帖



ご朱印ブームのおかげで、京都と大阪の狭間という辺境の地にある片埜神社にも、全国からのお参りがある。


というより、もともと遠くからのお参りはあって、ご朱印という形でそれが浮き彫りになったのかもしれない。


ご朱印を、知らない人のために説明しておこう。


神社仏閣におまいりした際に、そのしるしとして、朱印帖に社寺のハンコを押してもらうもので、神職または僧侶あるいは職員が、社名や参拝日付を筆で書き入れるのである。基本的に一社一頁。同じ神社やお寺のご朱印を何回もらってもかまわない。


スタンプラリーと違うのは、ハンコを押すのも日付を書くのも、朱印帖の持ち主本人ではなくてその社寺の人だという事。


さて、私事になるが、去年の夏休み、子供らと埼玉で川釣りをした。


べつに、釣り場として有名な場所でも、観光地でもない。実家の近くなわけでもない。


釣り好きの漫画家の友達が、埼玉の田舎に住んでいて、その地元の人しか知らないような川で、子どもも釣りができるポイントを探してくれて、パンを丸めて小さい魚を釣った。途中で友達の車がパンクして、コンビニの駐車場でタイヤ交換をした。





枚方に帰ってきて次の日、頼まれたご朱印帖を書こうとしたら隣の頁に埼玉の神社の朱印が押してあった。前の日に川釣りをした地域の名前を冠した神社だった。


私は夏休み気分のまま、「きのう、この神社の近くで釣りしたんですよ!」と言って釣りをした小さな川について説明すると、ご朱印帖を持ってきた人は「うちのすぐ近くですよ!なぜあんなところで!」と、とても驚いた。


その方はご朱印集めを始めたところで、実家が枚方にあるので「きょう帰省して、さっそく実家の氏神さんである片埜神社にご朱印をもらいに来た」ところだった。


きのうまで同じ埼玉の辺境にいた人と、今日は同じ大阪の辺境で出会った。ご朱印帖がなければ、それを知ることもなかっただろう。





また別の日。


令和のご朱印ラッシュが落ち着いた頃だ。頼まれたご朱印帖を書こうとしたら、となりの頁にものすごく見覚えのある字があった。


大きさの揃い方、字間の均等さ、文字そのものの均整のとれ方。


15年前、権正階(ごんせいかい)という神主の資格を取るために京都に通っていた研修で、隣の席だったタッキー(←あだ名)の字だ。活字のような答案を書き、活字のような筆文字で大祓詞を書いていたそのままの字で、京都の神社名と日付が書いてあり、まっすぐきれいにご朱印が押してあった。


原稿用紙のマス目が印刷された下敷きを敷いて、美しすぎるノートを取る真面目なタッキーの姿が脳裏に浮かび、


「これ書いた人、たぶん私の友達です」


と言ってしまった。ご朱印帖を持参した人にとっては「だから何なんすか」としか返しようのない言葉である。


だが、男の人は


「みたいですね。この人も言ってましたよ」


と答えたのだ。


聞けば、三年くらい前に、逆のパターン(うちの神社→京都の神社)でご朱印をもらいに行ったとき、私の字を見たタッキーが、


「この字の人、ぼくの同期です」


と言ったそうだ。


私とタッキーが、互いの筆文字について、なじりあっていたのは15年も前のことだ。(私は字が大きすぎて大祓詞や祝詞が奉書におさまらなかった)。


この男の人が、伝書鳩のように、私の文字を京都まで運び、それから3年たって、またタッキーの文字を大阪まで運び、「この人友達です」「みたいですね」という会話にたどりつくまでの時の流れを考えると、やはり神の采配を感じずにはおれないのである。


朱印帖の書き文字が持っている情報は、「神社名」と「日付」のみである。だが、文字そのものから直接受け取る情報量はもっともっと多い。


私はご朱印帖を書かせていただく時には、数ページ前まで広げて、水平にして書く。そうすると、さまざまな社寺のご朱印と文字を見ることになる。


その結果、だんだん、文字を見るだけで、「きょうこの人元気だな」とか「ユーキャンで筆ペン講座受けた巫女だな」とか「お、新人きたな」とか「この人いつもとちがうな」などと、分かるようになってしまった。(私はこれを超能力と呼んでいるが、小学生の娘に言わせると、単なるスキルらしい。)


さらに墨文字のすごいところは、これらの「書かれていない情報」が、百年、二百年もつ、ということである。


たとえば、どこの神社にも、二百年くらい前の、お供え物と奉納した人の名前を書いた木の板切れや紙なんかが、倉庫に無造作に積まれていたりする。


本に編まれた古文書のたぐいであれば、古文書講座で勉強しないと判読できないが、奉名簿のような覚書きなら、大根五束とか、誰の誰兵衛とかぐらいは分かる。


百年前は、この辺りではこんな作物がよくとれていたんだなあ、とか、昔から〇〇家の一党は栄えていたんだなあ、などと、すぐに分かるのだ。


さらに、その文字そのものから、時代の空気や、書き手の性格といった情報を感覚的に受け取ることができる。止めの丁寧さ、はねの軽やかさ、ハライのいきおい、空間の使い方、洒落ている人、堅物の人、てきとうな人。じつは、こっちの情報量のほうが、書いてある内容よりも、ずっと大きい気がするのである。


いま、世の中はペーパーレス化が進み、そのほうが木を切らずに済むし燃やさなくてもいいから環境にやさしいし、すべてにおいて合理的である。


だが、手書きの文字から発せられる感覚的な情報は、デジタルでは受け取ることができない。デジタルでは、時の流れを経てその感覚的情報を受け取った時のカタルシスがないのだ。


日本人には、「長年経つと、物にも神が宿る」という、付喪神(つくもがみ)の信仰がしみついている。デジタルの文章は、情報であって物ではないが、紙に墨で書かれた文章は、情報であると同時に物である。


物だから、長年たつと、自然に神が宿る。感覚的情報は、その付喪神の神威と言い換えることもできる。


「えー」とか言ってる人も、なんとなくそんな感じがしているはずなのだ。


だからこそ、これほどアナログなご朱印が、いまブームになっているのだろうと思う。そして世の中がデジタル化してペーパーレス化すればすれほど、筆文字のカタルシスを求めてご朱印集めを趣味にする人は増え続けるだろう。


同様の理由で、世の中がほとんどキッシュレス化しても、御賽銭や初穂料だけは「物」である現金が残ると私は思っているのだが、果たしてどうだろう?

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