命名の儀

名前をつけるのは、とてもむずかしい。
一度名前が決まってしまうと、なん百年も前から、その名前が約束されていたかのように思われる。まるで神の仕業のように思えてならない。だから悩む。
犬の名前、会の名前、チーム名、コンビ名、バンド名、ペンネーム。そういうのさえ、自分の考えたものに決まったためしがない。ボツになるような案しか浮かばない。
神職の同期会の名前も、けっきょくもう一人の幹事さんが決めてくれた。
その名前が、がんこ三条店の店先の黒板に、大きく「〇〇〇の会様」と書かれているのを見たときは、自分には絶対無理だと思った。
今現在も、奉納太鼓の団体名を何にするか、無茶苦茶悩んでいる。
わが子の時もそうだった。
十年ほど前の話だ。お腹の子は双子だった。
双子だと、超音波が二つの生命体から跳ね返ってくるため、よく分からないごちゃっとした映像が、画面に映し出される。そのため、性別の判明にも、タイムラグがあった。
超音波の機械をお腹に当てながら、産院の先生が
「うーん。ひとりは女の子やなねんけどな~、もうひとりが、わからへん」
と言ってからひと月後、また超音波検査で先生が
「あー、見えた見えた、ちんちんが見えた」
と言い、男女の双子と分かった。
女の子の名前はヨーコがいいと思った。オノヨーコ、荒木陽子、鴨井羊子、憧れの女性が三人とも、ヨーコという名前だった。すてきな先輩にもヨーコさんが2人いた。漢字はなんでもよかった。
男の子は、アキラがいいと思った。ヨーコとアキラ。世の中でたくましく生きていけそうなイメージである。親戚にアキラさんというおじさんがいて、会ったことはないがボクシングをやっていたと聞いた。漢字はなんでもよかった。
しかし、家族から「アキラがヨーコの舎弟っぽい」という意見が出た。「舎弟っぽい」の意味が分からなかったが、ひとまず名前は生まれたお子たちの顔を見てからということにした。
そして双子が生まれた。透明の箱に、ひとりずつ入って、並んでいる。未熟児だったから、想像よりずっと小さく、まるで連れてこられた宇宙人のようだった。
「アナタガタハ、ドコカラ、キタ」
どこか別の世界で活躍していた二人組の神様が、何かの拍子に目の前に現れたように思えた。出血多量で私の頭はくらくらし、床も何やらぐにゃぐにゃしていたので、余計にそう思ったのかもしれない(地面がぐにゃぐにゃの感覚はこの後2年ほど続いた。)
未熟児がまず入る部屋は、母体の中を再現するために真っ暗で湿度も高く設定されている。お世話する赤ちゃんが入っている透明の箱の中だけ、小さな光で照らされている。
透明の箱の中で、ほんのり光っている双子を見ていると、どうしたって、青空球児好児のような、韻を踏んだ名前ばかりが浮かんできた。
なぜだろう。出産前は、双子の名前人気ランキングを検索して、「どうしてみんな韻を踏んでいるのだろう」と、疑問に思っていたのに、、。
2人とも、めちゃくちゃ小さくて、儚い存在だったから、とにかく、名前をコンビみたいにすることで、どちらかひとりがどこかに消えてしまわないように、おまじないをかける、というような気持ちになったのかもしれない。
そして、わが子の名づけには、もうひとつ問題を複雑にしていることがあった。
神社で陰陽道に基づいた名づけをさせていただいている以上、陰陽道の理屈から外れた名前はつけられないのだ。
名づけとはいっても、依頼されたご両親の意向が大事なので、ご両親に名前候補を5つほど挙げていただき、その中から、陰陽道で最も運勢が良いとされるものを選ぶのだが、苗字と名前の陰陽のバランス、発音も考慮するので、選ぶだけでも、一晩はかかる。
ここは一旦、宮司のご先祖たちがいったいどんな名前をつけられてきたのか、123代にわたる家系図を参考にすることにした。嫁に来た当初見せてもらったが、箱に入ったものすごく長い巻物だったので、自分の手帖に、ある程度模写しておいたのだ。
古い時代には漢字一文字を脈々と受け継ぎ、この字との組み合わせで男子が名づけられている。
(女子は、「女」としか書いていなかったので、どういう名前の人たちがいたのかは、わからない)。
ところが、数代前から、その漢字一文字を受け継ぐのをやめてしまい、先代宮司の名前は「一郎」さん。その弟は「二郎」さん。何かあったのだろうか?
昔の一文字継承は、復活させたほうがいいのだろうか? それともこのまま自由に名づけるべきか? そして双子の名前はライムしたほうが良いのか?
家系図を参考にすると、むしろ混乱した。
実際問題、「これ、好きだ」と思った名前は、漢字の画数が悪い。
波乱万丈な人生を歩んだりする画数になる。
画数をなんとかしようとこねくりまわしているうちに、ほとんど読めない名前になる。
苗字と名前の陰陽のバランスが悪い。
いやいや、がんばれば読める。この発音はゆずれない。
……こうして、だんだん、読みやすさ、という選考基準は下へ追いやられていった。
数日たっても双子の名前は決まらないまま、看護師さんたちに、「1子ちゃん」「2子ちゃん」と呼ばれていた。このまま仮の名で呼ばれつづけたら一子と二郎になりそうだった。
あっ。もしかして先代はこのパターンで一郎二郎になったのだろうか。
昭和に入り、名前も自由に、選択肢が無限大になったからこその、名づけの迷宮。
けっきょく、好みと画数と韻踏みと家風、すべてを丸くおさめる男女の名前を思いつくのは人間には不可能なのではないか。むしろ、A.I.の得意分野なのではないか。とすら思えてきたので、私は名づけを宮司に丸投げした。考えることを放棄したのだ。
そして、宮司が考えた名前に決まり、「命名の儀」が行われた。
さて、神社には、毎年、二百組を越える赤ちゃんが、初宮詣にいらっしゃる。
考えに考えたであろう、やや読みづらいお名前。
(多少読まれへんくらい、ええじゃないか。)
一方で、読みやすい、シンプルな名前。
(シンプルだけに、大きな深い思いがつまっているのだろうな。)
人様のどんな名前にも、邪悪な感想を持つことなく、素直にお祝いする気持ちが湧いてくるのは、自分が名づけの迷宮にまよい、最後には放棄したからだと思う。
そもそも、この世に生まれ出て、名前がついているということ自体が尊い。
名前って、すごい発明だよなぁ。神が発明したのかなぁ。
「名前で呼ばれる」、それは、自分を言祝いでもらっているのだ。 「名前を呼ぶ」、それは、その人を言祝いでいるのだ。
と、仰々しく言ってみる。
なかなか良きせりふだから、広報委員、掲示板に張り出してくれないかな。くれないな。
ともかく、名前を呼んだり呼ばれたりするのって、単純にうれしい。
ゴダイゴがすでに40年くらい前に歌っていたことをもう一回言うけれども、ひとりにひとつずつ、うつくしい名前がある!
お宮まいりの祝詞で、赤ちゃんの名前を読み上げる。
最近、それだけで、うれしくなる。