ハライドの狼

ついこの間まで、腕まくりして汗をかきつつ落ち葉掃きをしていたのが、気がついたら空気が冷たく、軍手が防寒具になっていた。

七五三詣のお子さんたちが、可愛い。


お餅みたいな三歳児に、参拝客のお年寄りが群がっている。私も意識だけそこに参加する。

我が子の時は余裕がなくてその可愛さを存分に味わうことができなかったので、今、人のお子さんで可愛さを堪能しているのだ。

ところで、七五三のご祈祷だけではなくお宮参りも厄除祈願も、すべてのご祈祷で最初に行われるのが、修祓(しゅばつ)という、いわゆるお祓いである。

神職が祓串をシャっ、シャっと振る前に、祓串に正対して六十度に腰を折り、唱えているのが祓詞(はらえことば)。子供達には呪文のように聞こえるだろう。

かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ

つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはらに

みそぎはらえたまいしときになりませる はらえどのおおかみたち

もろもろのまがごとつみけがれあらんをば

はらえたまいきよめたまえともうすことをきこしめせと

かしこみかしこみももうす

二年ほど前、スマホの音声入力で遊んでいた時、祓詞も音声入力してみた。 A.I.は以下のように変換してきた。

かけまくもかしこきイザナギの狼

つくし野ひむかの橘の音の萩原に

みそぎはらいたまいしときになりませるハライドの狼たち

もろもろのマンゴーと罪穢れアラームは

払いたまえ清めたまえと申すことを聞こう示せと

かしこみか仕込みももう雲子

音の萩原。

ハライドの狼。

もろもろのマンゴー。

罪穢れアラーム。

雲子。


A.I.のくせに、誤変換のセンスが良いと思った。


だが、音声認識の精度は日進月歩。もしかしたら今はA.I.も祓詞を正確に変換するつまらない奴になっているかもと思い、先ほども音声入力してみたが、祓詞に関しては二年前と同じような結果で、満足した。

さて、変換の正解は以下である。

かけまくも畏き伊邪那岐大神

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に

御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓へ戸の大神等

諸々の禍事 罪 穢有らむをば

祓へ給ひ 清め給へと白すことを聞こしめせと

恐み恐みも白す

ざっくり解説すると、

国生みの夫婦神、イザナギ・イザナミの、男神のほう(イザナギ)が、川でみそぎした時に、たくさんの神々が生まれて、祓戸の大神たち(はらえどのおおかみたち)と呼ばれている。祓詞は、その大神たちに、「もろもろの禍事(まがごと)や罪や穢れがあったら、祓ってください、清めてください」とお願いしているのである。

イザナギがどうして川で禊ぎをするに至ったかのいきさつ(イザナミとのいざこざ)については、ここで書くと長くなるので、古事記や日本書紀を参照してほしい。

この祓詞、一回声に出して唱えてみると分かるのだが、地名がやけに長くて詳しい。「の」が多い。

祓詞は全部でたった6行しかないのに、長めの1行まるまる使って

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に

という、かなり限定した地名を語っている。

私はここの部分を唱える時、まだ行ったことのない九州のどこかの、陽の光と緑の濃い草原の中を、ハライドの狼と一緒にわしわしと駆け抜け、もろもろのマンゴーの実をもいで食べ、清流でごくごく水を飲むところが脳内に展開される。

それはA.I.の誤変換のせいでもあるのだが、おそらく、これを唱えるそれぞれの人が、それぞれの脳内に、めちゃくちゃ気持ちの良い風景を投影していることと思う。


だが、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」という、この不必要に詳しい地名を合理的に抽象化して「ある河原で」としたら、どうなるだろう?

脳内に気持ちの良い風景は発生するだろうか?


しないと思う。


それだけでなく、途端に祓詞としての力が失われるように思うのは私だけだろうか。いや、おそらく全世界の人がそうだろう。

一番、意味があんまり無い部分、地名を詳しく言ってるだけの一行に、祓詞の力が宿っていそうな気がする。

それこそが、祓詞の本質なのではないか。と最近は思っている。

昨年の今頃、大学4回生の巫女さんとこんな会話をした。

「桃子さん。私、今回のGO to トラベルで国内の温泉に六カ所も行きましたよ」