霧島、って言うらしいよ

よく、「なんて花?」と聞かれることの多い、片埜神社の正門(通称・赤門)側にあるこのつつじは、おそらく「霧島」である(先代宮司談)。毎年、四月後半から一斉に咲きだす。写真は八部咲きといったところだ。 3,4センチほどの小ぶりで赤い花が密集して咲くのが特徴で、満開になると、いくらなんでも赤すぎやしないか、と思うほどの燃えるような景色になる。やはり霧島と断定してまちがいなかろう(現宮司談)。 そんな霧島の出目は鹿児島である。薩摩の出だから、霧島というのである。かつて角界にも鹿児島県霧島市出身の「霧島」という力士がいた。和製ヘラクレスとも呼ばれた筋肉隆々の力士で、ハンサムゆえパリ巡業では「角界のアランドロン」と紹介された(ウィキペディア談)。 ツツジのほうの霧島は、江戸時代の寛永年間(1624-1644)に、薩摩で自生するヤマツツジとミヤマキリシマ(深山霧島)を掛け合わせて作られた園芸品種であり、正保年間(1644-47)に大坂に伝えられ、京都や江戸に爆発的に広まっていった。力士もツツジも、霧島は活躍が華やかだ。 ツツジの霧島を見ていると、人工を追求しすぎて、ついには宇宙的な世界までいってしまった、江戸時代の園芸ブームを幻視できるような気になってくる。 かつて、イギリスをひと月、旅したことがある。ロンドンから、ランズエンドまで、有名無名のストーンヘンジをたどりながら、友人一家と車で旅をした。イギリス人も園芸好きで、庭に手をかけている家が多かったが、イギリス人の庭は、どれも自然への憬れに満ち、ナチュラルに仕上がっていた。 それに比べ、日本の庭園は、めっちゃ水平に切りそろえた枝、図形のよう

桜と死、そしてボーイズラブ

俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。 (梶井基次郎「桜の樹の下には」) 「檸檬」の梶井基次郎が書くずっと前から、桜と死は切っても切れない関係にあったように思われる。 枚方八景のひとつにも選ばれている「牧野の桜」。片埜神社の北側にある牧野公園は、桜の名所として知られるが、ここにも、ある武将の首が埋まっていると伝わる塚がある。 平安時代、征夷大将軍 坂上田村麻呂によって平定された蝦夷(えみし)の武将、阿弖流為(アテルイ)と、副将である母禮(モレ)の首である。 牧野公園は、現在、市の所有であるが、戦前までは片埜神社の宮山であった。 阿弖流為と母禮が斬首された時(802年)には、すでに片埜神社は存在しており、牧野公園はやはり宮山であったと思われる。 宮山ということは、神域であるから、血の穢れは最も避けられるはずの場所。そこにあえて首を埋めたとなれば、その禁忌をひっくり返すだけの理由がある。よほどの高貴な人物か。祟り神となり得る人物か。あるいはその両方か。 いずれにせよ、その霊力の大きさが最大級の人物でなくてはいけない。朝廷軍を苦しめ「悪路王」と恐れられた武将、阿弖流為ならば、それに値するだろう。 そもそも片埜神社は出雲の豪族、能見宿禰(のみのすくね)が大麻蹴速(たいまのけはや)に相撲で勝ち、交野ケ原一帯を拝領した際、出身地出雲の神「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」を祀ったのが草創であり、祀られたスサノオ自体が荒ぶる神なのである。(高天原で暴れ、姉である天照大神を怒らせ、天の岩

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